2017年小淵沢駅の新駅舎が完成し、翌年にはターミナル横に馬のまち小淵沢のシンボルとして、家族の馬のオブジェが置かれました。

「馬のまち」として紹介される小淵沢ですが、馬への関わり方は千差万別。様々な顔を持つ馬のまちであり、今日も様々な馬関係者が全国から行き来しています。

ここに記録としてこれまで聞いてきたことを中心にまとめておきたいと思います。


歴史 〜甲斐国と馬〜

馬が大陸より日本に渡来したのは古くても弥生時代末期。更に乗馬の風習が伝わったのは4世紀末と言われていますが、甲府市内の遺跡(塩部遺跡、東山北遺跡)からは4世紀の馬歯が出土しており、その初期より山梨県内でも馬の飼育が行なわれていたことが確認されているようです。

古代、地方支配体制が築かれ国造りが始まると、大和政権への忠誠を誓う貢上物として馬が登場します。中でも甲斐国の馬は「甲斐の黒駒」と称され『日本書紀』の中にも記されるほど駿馬としてのブランド力を持っていました。聖徳太子が甲斐の黒駒で富士山を登ったという伝説は広く知られることとなり(『扶桑略記』『水鏡』)、また古代の甲斐は馬産地であるだけでなく、既に馬を扱う騎馬兵も擁していたと考えられる記述(壬申の乱『日本書紀』)も残っているそうです。

やがて駅馬・伝馬とした通信手段としての乗用馬や軍馬として馬の需要が広まっていく中でも黒駒の伝統は継承されていったようです。

奈良時代には天皇の勅旨として御牧(みまき)が設置されます。設置されたのは4カ国。その中に甲斐国があり、穂坂(穂坂町)、柏前(高根町)、真衣野(武川町)の3箇所に牧(牧場)が置かれました。平安時代には御牧より中央への貢馬牽進の儀式である駒牽(こまひき)と呼ばれる宮中行事も盛大に行なわれていた様です。また競馬が行なわれ始めたのもこの頃だそうで、娯楽の中でも馬の使用が見られるようになりますが、やがてそれは様式化され、神社の祭礼としての競馬も営まれるようになったと言います。山梨県では八ヶ岳南麓を中心に12世紀頃の方形竪穴状遺構(地面を掘り窪めた建物跡)が多く分布しているのですが、これは馬小屋だったのではないかという説があるそうです。

中世に於いては武士の誕生とともに治安活動の為の戦闘力として馬は欠かせないものとなり、馬事は武術としての性格を持ち始めます。
甲斐源氏の始祖と言われてきた源義光の子義清、孫の清光が甲斐国北西部の逸見地方(北杜市地域)を拠点として勢力を伸張させていきます(義清は武田姓を受けましたが、清光は逸見姓を名乗っています)。その子信義は再び武田性に戻し、現在の韮崎一帯を本拠地としました。現在この武田信義が初代武田氏と言われています。源(逸見)清光がこの地方に着目した要因は、古代から続く広大な牧(牧場)の存在であったであろうと推測されています。この豊富な財力と強大な兵力を養うことの出来る牧の存在が、甲斐源氏発展の基礎を築くことになったことが想像できます。そして戦国時代、甲斐の象徴的存在である武田信玄の躍進は「武田の騎馬隊」と共に在り(諸説有り)、甲斐国=馬のイメージを決定づけるものになりました。

江戸時代、小淵沢も含まれる逸見筋や武川筋は甲斐国内でもとりわけ牛馬の多い地域であったようです。馬の供養の為の馬頭観音も一帯には濃密に分布しています。馬の使役は庶民に広がり、浄光寺鎧堂(高根町)、義光山矢の堂の聖観音は馬守護の信仰を集めていたそうです。

「甲斐国志」によれば編纂された十九世紀初頭当時、一戸当りの馬所有頭数が最も多いのが逸見筋であり、小淵沢町域では下笹尾、小淵沢、上笹尾の三村が六十四ヶ村中の十位以内に入っており、馬の多い逸見筋の中に於いても更に馬の頭数密度が高い地域だったことが解っています。逸見筋の村々が他の地域と決定的に異なるのが、単に駄送や山稼ぎといった馬の使役に留まらず、古代からの伝統を受け継ぎ、積極的に繁殖活動を行なう馬産地であったという点であると言われています。今日、観光の柱としても馬術関連の産業が根付いていることを考えると、古代から現在まで八ヶ岳山麓周辺に継承されてきた馬飼育の伝統の有する力は決して小さくは無いといえるでしょう。

現代 〜今に続く馬のまちの形成〜

近代化による産業や生活の変化によって、庶民に於ける馬の役割は徐々に減っていったようです。そして大戦後の急速な高度経済成長によって、ほぼ馬の役割は消滅していきます。

八ヶ岳南麓では大戦後大規模な開拓事業が行なわれ、多くの入植者が山間部の森を切り開くことになります。やがて小淵沢では昭和29年に八ヶ岳酪農共同株式会社本社工場が竣工し、その開拓地でも牛の飼育が多く行なわれるようになったようです。

昭和40年代、小淵沢の最北部に当たる場所でユーカリ牧場が始まっています。周辺地域でも以前より馬の飼育は行われていましたが、交通網の発達により徐々に小淵沢にも注目が集まってきたのでは無いでしょうか。

やがて昭和49年(1974年)にラングラーランチが開業(現在のララミー牧場の場所)。昭和51年(1976年)ラングラーランチが現在の場所に移転するのですが、この頃より小淵沢での乗馬クラブが目覚ましい発展を遂げていきます。当時から、そして亡き後も“ボス”と呼ばれ続けているラングラーランチの創始者田中茂光氏が、町内いくつものクラブ誕生に関わり、広がっていくのです。馬で人を集める、それがこの地域の観光に繋がっていきました。そして黒沢明監督の映画「影武者」に馬術指導で参加。以降、映像業界での馬術指導の第一人者として多くの作品に関わっています。

その勢いは昭和58年(1983年)の山梨県立馬術競技場の開設に繋がり、昭和61年(1986年)のかいじ国体の成功を経てブリティッシュに分類される馬術競技に於いても重要な拠点となりました。

翌年にはNHK大河ドラマ「武田信玄」の撮影地となり、町内にオープンセットも組まれたことで撮影中は連日観光客で大変な賑わいを見せることになったそうです。交通網の整備や小淵沢のペンションブームの波と共に、現在の高原リゾートとしての姿が形成されていきました。

当時乗馬クラブのお祭りとして始まったホースカーニバルは、馬術競技場が竣工された後は町のお祭りとして、現在の「八ヶ岳ホースショーinこぶちさわ」に引継がれて行くこととなります。

こうして現在も、競技場での馬術競技に関わる人々、ラングラーランチを中心に映像作品に関わる人々、自馬との生活を送る人、馬との暮らしを求める人々、季節の外場を楽しむ人、馬との触れ合いを楽しむ人など、プロフェッショナルから初心者まで本当に多様で沢山の人たちが全国から行き来しています。

馬の飼育に適した気候や環境。それは古代より現在に至るまで、絶えず馬に関わる人々を惹きつけているのです。

都心からも近い全国大会にも適した交通の便を持つ競技場を有し、小さな町の乗馬クラブの濃密さでは全国一、山岳を利用したエンデュランス競技や観光乗馬など、ウェスタンやブリティッシュの分類のみならず、乗馬においても、その多様性では全国の中でも群を抜いていると言えるのでは無いでしょうか。


私自身は直接馬に関わっている訳ではありませんが、小淵沢に来て、これまでの間に本当に多くの関係者の方々と話を出来る機会があったことで、ずっと身近な存在になりました。

現代の車や郵便、電話など無くてはならないものの役割も昔は馬が必須でした。山梨と言えば武田信玄の騎馬隊も有名なように武力にもなり、武術でもありました。庶民の間では農耕を助け、戦前まで多くの家庭でも当たり前のように飼われていた馬もいつしか姿を消しました。絵馬として残っているように、神へ献上されるものとしての性質は今も残ります。

いつの時代も人と共にあり、人を超えて、人を助けてきた馬。そんな馬の集まるこの町を誇らしく、ずっと守っていきたい気持ちにさせてくれるのです。

2020年